明治に入ると新政府は大久保内務卿を中心として各種産業部門に積極的施策を進め、 養蜂もそのひとつとして取り上げられました。 1875年に内務省属武田昌次は紀州宮原の貞市右衛門を訪れ、上京して養蜂の研究に 当たることを勧め、またその息子市次郎には小笠原にいって養蜂の新しい天地を開拓 するよう勧めました。 しかし市右衛門はこれを断り、代わりに当時21歳の市次郎を推薦します。 市次郎は勧業寮蜜蜂飼養出仕係を命じられ、内藤新宿の勧業寮出張所に勤務することになります。 その後は蜂の集蜜活動を観察する環境をつくり、蜜市流の養蜂の研究と指導に没頭します。
1877年1月、内藤新宿勧業寮出張所は「勧農局試験場」と改称されました。 12月にはアメリカよりイタリア国種の蜜蜂を仕入れてこの新宿試験場で飼養し、 内外蜜蜂の得失を試験します。 これが日本における西洋種を輸入した最初のものになります。 岐阜県羽島郡の渡辺寛は1900年、日本蜂を飼っていました。 しかしやがて後洋種の方が優れていることを認めると、1907年にはイタリアン2群を 買い入れてこれを基本とし、アメリカから輸入したカーニオランおよびサイプリアン王蜂を 誘入して増殖を図ります。 そして岐阜の名和昆虫研究所は1908年、アメリカのルート商会からイタリアン王蜂と 養蜂器具一式を輸入して増殖します。 このように明治時代には盛んに洋バチが導入され、日本での養蜂も大きく進歩します。
1909年渡辺は名和と提携して雑誌「養蜂の友」を発行すると、愛知県奥町の野々垣は 「養蜂界」を発行し、また名古屋の奥島は「日本養蜂雑誌」を発行しました。 その他にも雑誌と名のつくものは計50種類以上もが発行されました。 大部分は種蜂の宣伝用でしたが、公の指導機関がほとんどない養蜂の業界においてこれらの 雑誌は重要な役割を果たします。 雑誌のおかげもあり種蜂の普及は急速に広がっていきましたが、この頃の養蜂の始業者は はちみつを生産することを目的とはしていませんでした。 はちみつを生産するよりもその基礎となる、種蜂を増殖して元群を売るという目的で 養蜂を始める者が多かったようです。