本文へスキップ

養蜂の誕生から国産はちみつが生まれるまでの歴史を解説します。

転地養蜂の開花

大きな転飼

通販で国産はちみつ買ってみよう/大きな転飼

収蜜を目的とする転飼は、1913年九州の兵頭文平が宮崎から山川港に70群を 移動したのがはじめてだと言われています。 最初の大規模な転飼は、久留米の小島広次が1914年から行ったものでしょう。 1914年1月中旬に150群をもって山川港へ陸揚げし、1月下旬和種ナタネ開花、 3月下旬育虫室より採蜜、福岡県三潴郡で平均2貫目採蜜、4月上旬三井郡北野地方で 洋種ナタネから5月末のゲンゲまでに平均8貫目採蜜、5月末八女郡のハゼに移って 夏越しをします。 小島は翌1915年にも200群を率いて、鹿児島港より発動汽船で山川港へ陸揚げします。 同じく1915年年の7月、岐阜県の杉山善三郎は穂積駅から北海道狩太駅へ47群を 転飼するなど、徐々に転飼という方法も広がっていきます。


名古屋のSEO対策と言ったら http://seo-peach.com/
愛知、岐阜、三重、静岡のSEO。検索エンジン対策。

戦時中の養蜂

南北に長く伸びる国土を持つこの日本では、転地養蜂は興隆をきわめました。 昭和に入ると戦時中は重軽金属は軍需資材として厳しい統制下にありましたので平和産業への 配給はほとんど行われなかったのですが、はちみつは甘味栄養資源としてだけでなく 蜜蝋とともに医薬的効果が認められ、国産はちみつ生産の為に蜂蜜容器としての製缶資材の 配給を受けるということもありました。 また蜜蝋は軍器にも不可欠なものであり、爆弾、砲弾、魚雷、スクリュー、錆止めなど その用途は多岐に渡ります。 戦争が終わってはちみつが軍の需要から離れると、甘味代用として関心を高めます。 砂糖も統制配給下にあったので、甘くて栄養に富む蜂蜜はとても珍重されたそうです。


戦後の養蜂

戦後の高度成長経済の中で日本の国土の自然は荒廃の一途を辿ります。 自然が減ることで養蜂を取り巻く環境は次第に困難さを増してくることになるのですが、 1955年に「養ほう振興法」が成立して養蜂の地位が確立されました。 しかしその後も養蜂業者の苦難は続き、1963年の蜂蜜輸入自由化で国産はちみつは 大打撃を受けることになります。 採みつは業者は困難な状況に直面するのですが、環境保全と生態系保全の観点から ミツバチの重要性は増していくことになります。 ミツバチはまわりの雑草から蜜をもらいその雑草の受粉を助けます。 植物の生態系に不可欠な野生昆虫が激減していく中で、ミツバチの役割は重大なものと なってきました。